2014年度~2016年度 社会教化部門3ヶ年方針
前期の社会教化部門より、社教のテーマは「出遇い」であると確認された。そこには、「教化」とは釈尊の言葉であり、社会で問題になっていることが、私たち(衆生)にとってどのように知らされるのか、つまり社会を単なる時代の流れと遠ざけてみるのではなく、社会から教化されていく、本当の教えによって化されていくのは私自身であるということが課題となった。しかし、社会から教化されていくことを自らの思量で決着するのであれば、そこに教化されるものは生まれず、観念化に落ち込み顚倒していく。
前社会教化部門部長より「私たちは何が問題というよりも何を問題としてこなかったのか、何を見過ごして何を踏み躙ってきたのか」という指摘をいただいたときに一つの文言を拝聴した。「忘却」という一言である。
安田理深先生は「新しい時代に追いついてみても、現代はどんどん先に行くのですから、先になろうとしても結局遅れる。そうでなしにわれわれは根源的に帰らねばならん。帰るところに進むことを越えた道があるのです。帰るといっても後へ帰るのでなしに、忘却しておることを呼びもどす、念仏の念というのはそういう意味でしょう。憶念とは忘れておるものを回復する。」(「展開する本願」『大地』別冊Ⅶ)と教示される。両氏の言葉は、動いても動かなくとも観念の世界に閉じこもり、どこまでも傍観していく私たちの現実を指摘するものであり、「何を求め、何を願い、また何者として生きようとしているのか」という忘却の事実を立脚地とした問いではなかろうか。
出発点・方向性・帰着点は同時に賜る世界である。人間そのものが、時代・社会を離れてはあり得ない以上、その具体性が吟味される。独善性に酔い、出発点を見失うことが社会教化部門では特に危険である。出発点に帰ることを、先達の言葉に尋ね、また道標としながら三カ年活動していきたい。