2022年度 社会教化部門学習会 開催
社会教化部門「差別問題をお聖教に学ぶ」
開催目的:差別問題に無関心あるいは傍観するだけの者であり続ける私たちを、一切衆生の浄土往生が願われる経典ではいかにして救おうと説かれているのか。本学習会では、浄土には差別する言葉や名称がない(等無譏嫌名)と説かれる『浄土論』と、それを註釈した『浄土論註』を手がかりして共に尋ねる場を設ける。
日時:2022年12月20日(火)14時~16時10分(講義後、部門内座談)
会場:真宗大谷派北海道教務所 講堂(web併用)
講師:金石 晃陽 氏(南第3組光福寺住職)
参加人数:28名(部門員3名、執行部4名、組内外参加者21名) 23ヶ寺
金石氏には「差別問題をお聖教に学ぶ 等無譏嫌名を手掛かりとして」というレジュメに沿ってご講義をいただきました。以下、講義内容を記します。
【講義内容】
金石氏は、なぜ真宗に生きる者が、親鸞に生きる者が社会問題に関わるのか、そのことをお聖教に尋ねた時に浮き彫りとなったことをいくつか述べられた。
まず、前段として、宗議会での質問に、「解放運動推進本部や女性室を廃止すべき」「同和問題に取り組む宗教教団連帯会議や部落解放同盟との関係を解消すべき」(宗報9月号 岡崎教区)との発言があったことへの憤りを語られた。氏は、社会問題に関わるときに「寝た子を起こすな」という言葉を聞いたことがあるが、これは何か発言をして事を荒立てるなという意味である。いったいこの寝た子は誰なのか、眠り続けているのは誰なのか。それはあなた自身ではないかと、如来は私たち一人一人に呼びかけているのであろう、と述べられた。
次に、本山の被差別部落解放同盟や水平社、ハンセン病解放運動の立ち上げに関わられた武内了恩氏について述べられた。武内氏は、先の如来の呼びかけに応答し、「私は差別者である。この徹底した自覚からしか、私の解放運動は始まらない」と生涯をかけられた。
講義の後半では『浄土論』『浄土論註』について内容を確認した。「世尊我一心」から「往生安楽国」までの偈頌を課題として明らかにし、その後は論文で願生偈の課題を十門をもって論議している。五念門が菩薩の行として問われている。宗祖は曇鸞を通して大衆菩薩の行ではなく、凡夫の上に開かれてくる本願の仏道であるといただかれた。五念門のうちの観察門には、安楽国は29種の荘厳功徳をもって観察門が開かれている。内訳は国土17種荘厳、仏8種荘厳、菩薩4種荘厳である。
お内陣やお内仏の荘厳は、そのものが国土17種荘厳である。中心はご本尊、仏の肩書きとしての菩薩は、親鸞聖人、蓮如上人、七高僧、聖徳太子、歴代の住職・坊守方々が還相の菩薩としての荘厳である。そういう形で具体的に我々のお寺のお内陣、お内仏が私たち一人一人のために、安楽国(29種荘厳世界の仏)として表されているのである。国土17種荘厳は「仏、もと此の○○功徳を起こしたもう故は、三界を見そなわすにあるいはまた有る国土をみそなわすに」という文で始まる。「大乗善根界 等無譏嫌名」(第16種 大義門功徳)は、『論註』では「有る国土をみそなわすに」という言葉で始まる。「本とは因位法蔵菩薩の時、この清浄功徳をおこしたもうゆえは、三界をみそなわす。あるいはまた有る国土をみそなわすに」という文で始まる。漢文では「見有国土」の「有」は「迷い」をあらわす。
なぜ法蔵菩薩は、浄土建立を願われたのか。曇鸞によると、如来の透徹した智慧の眼に写ったこの身の事実とこの身を生き、そして作り出す身近で具体的な痛ましい現実社会があるからである。自らが、そこに身を置き生きている世界、それはとても愚かで痛ましい悲しむべき世界である。その中で生きる人々は苦悩に喘ぎ、迷い続けて生きている。因位法蔵菩薩はその姿をご覧になって浄土を建立したのである。宗祖の和讃にも「如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり」とあるように、如来はなぜ本願を発こされたのか、一人一人が業各別の人生にあって、その苦悩を除こうとされたのが理由ではないだろうか。どのような生き方をしていようと、如来の眼に写った衆生の姿は、全て苦悩の有情である、というのが宗祖の了解である。それには曇鸞の「有る国土をみそなわす」から始まる17種荘厳の一つ一つが、差別問題だとすると、お互いが下を見れば蔑み、上を見れば羨んで生きている我々の現実を見て本願を発こされ、浄土を建立されたのである。
そのことを踏まえると、「大乗善根界 等無譏嫌名」は、阿弥陀仏の大悲によって開かれた平等一未の世界(安楽国)には、嫌われるものの名がない。仏教で説かれる「寿(いのち)」は、仏の智慧によって、すべての寿はみな平等に等しく光輝いていると教える。私たちは自我分別の眼によって、光り輝いている寿が見えないのである。私たちはレッテル(性別、老若、善人悪人、地位、学歴、肩書、民族、出身地…等)を通さなければ人とあえない。本願文の第一願は「無三悪趣の願」、第二願は「不更悪趣の願」、第三願は「悉皆金色の願」、私たちの現実はレッテルによって比べ合い、自分が少しでも上なら優越感、下は劣等感、いつでもこれが入れ替わるから寿がわからないのである。だからこそ第三願、第四願を発され、平等一未として安楽国が開かれている。
「譏嫌の名無し」には、「女人・根欠・二乗」の問題が出ている。第16願(離譏嫌名)では、浄土には譏り嫌う名(人)すなわち差別する者がいないのである。第35願(変成男子)は、女身を蔑視する境遇を憎み、命終えて後に私の国に生まれて、再び女性を差別する形をとるならば、正しいさとりを得ないと誓われる。ただし、曇鸞は「女人及根欠」を語るとき、性としての問題だけではなく、「名」と「体」に注視されている。宗祖は『大無量寿経』の宗致は本願であり、名号を体としている。体は具体性や全体を表すので、ここでは「女像」である。名は自分がこれまで歩んできた経験や知識、その人の名前のところにその人の全体がある。その名を通してその人の全体に出あう。
なぜ本願は南無阿弥陀仏という名になったのか。名の中に私たちにかけている如来の願い・智慧・慈悲がすべて収まっており、その名を通して安楽世界を開かせたいのである。なぜ我が名を称えよというのか。私たちはすでにして如来の安楽国・広大無辺の世界に包まれているからこそ、仏の名を私たちに回施されたのである。「悉皆金色」と「無有好醜」をうけて、『仏説阿弥陀経』には倶会一処と浄土の世界が語られる。浄土の池に咲く蓮華の花は、それぞれの色のまま輝いている。女性が蔑視されない世界、女性として差別されることのない世界である。第41願(諸根具足)の根欠は六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)が欠けたる者を指すが、曇鸞はたとえ感覚器官が具足していても、仏法が感覚できないなら根欠というべきであろうと問いかけている。第14願(声聞無数)は、自利利他を課題として歩む大乗の菩薩は、地獄に堕ちることを怖れるよりも、二乗地に堕ちることを怖れる。それは自利のみだからである。「二乗種不生」の「種」とは自利のみを求める心である。『浄土論』の「何等世界無」から「示仏法如仏」は無三宝処の往生への願いを説かれている。無三宝処を曇鸞は「五濁の世、無仏の時」としている。
最後に、氏は、私たちが真宗の教えに生きようとするとき、なぜ社会問題が課題になるのか、どういう形で関わっていけばいいのか。それは痛みであろう。痛みをもって関わり、痛みに出あっていけるのかが重要であると述べられた。
講義後、氏と部門内座談会が行われた。優婆提舎や二乗の意味について、本願念仏に照らされた人は差別者であると頷いていけるのか、などの質疑応答の時間がもたれた。
金石氏の講義を拝聴させていただき感じたことは、私自身が何か答えのようなものを握っていたということであった。差別問題は、お聖教の言葉に帰って聞法していく他にないと考えていたが、聞法していくと言いつつも、宗門に身を置いている私が、このような負の歴史・痛みに出あっていたのか甚だ疑問が残った。私はアイヌの方々と対面したことはあっても、そこになんの痛みも感じてはいなかった。そういう私の事実が差別なのだと感じた。寝り続けている私に如来は、寝ている子はあなた自身ではないかと呼び続けて下さっていると氏はおっしゃられた。五濁の世であるからこそ、そのことが縁となって仏法がひらかれている。簡単なことではないが、いつでも緊張感をもって、あらゆるできごとに関わり、浄土に問い返せと促されてあることに出あっていかなければならないのだと感じた。
(文責 小泉弘瑞)