2020年度 社会教化部門学習会 開催
社会教化部門「同朋社会への再出発~ジェンダーから問われるもの~」
開催目的:宗門における性差に関わる問題の現状と課題を、お聖教を通して理解を深め、共有する場とする
日時:2020年12月17日(水) 午後2時~4時 会場:北海道教務所2階講堂
講師:義盛 幸規 氏(第20組 法薗寺住職)
講題:「真宗門徒がジェンダーについて考える手掛かり」 内容:公開講座・座談会(同月28日、リモート)
対象:寺属(住職・前住職・若院・坊守・前坊守・准坊守、法務員など寺院に属する者)
参加人数:18名、執行部・部門員8名 計26名
当部門部長による提言後、ご講師の義盛先生より講義があり、主に「歴史的にジェンダーが抱えている問題と課題、その理由は何か、それに向き合う私たちはどう関わるべきか」ということについてお話いただいた。
また、当日の講義映像はネットを通じて試験的に准坊守会の有志の方々へ配信した。
日程中は新型コロナウイルス感染予防のため、参加者には検温、マスク着用、手指の消毒をしていただき、室内を換気しながら行った。
後日、ZOOMにてご講師を交えて部門員と執行部で座談会を開いた。
【講義内容について】
まず、義盛氏は、ジェンダーとは生物学的な性別に対して、社会的・文化的に形成された男女の性格や能力などの特性・性差(「男らしさ」「女らしさ」)をさす語であり、この概念はフェミニズム(女性解放思想などの意)運動の中から生まれてきたことを確認した。
また、ジェンダー概念の展開として、多くの社会において文学や学問的著作などの書き手は男性であるため、書き手や読み手の性別が言語表現にもたらしている暗黙の効果に関する視点を問うことはほとんど無かったことを確認した。これに関して、我々が依り処としている経典は著作が皆男性であること、そして、書き手と話し手が男性であることから宗門が強固なジェンダー基盤を有している点を指摘した。
しかしながら、氏は「親鸞聖人が差別を容認しているのかについては立ち止まらなければいけない」と述べた。宗祖の仏教には、家庭という妻や子に悩まれるその環境においてどう救われるのかという前提がある。第35願(変成男子の願)は第18願に寄り添っており、男も女も「ただびと(凡夫)」として、お互いに許し合って生きてゆく世界の根本をここに求められている。「変成」は女性から男性に成るではなく、『教行信証』、『唯信鈔文意』に引文される「能令瓦礫変成金」の「変成金」、「いし・かわら・つぶて」のごとき凡夫が変じて金と成る「成仏」を表すものだと解釈すべきである。つまり女人や女身とされる言葉は、「ただびと(凡夫)」であるため、女性のみが該当するのではない。
男性も同じであるので、我が事として受け取るべきである。ただし、そう言い切っても、その言葉に傷つく人がいるので、その都度丁寧に確かめていかなければならないことを確認した。
また、寺院の世襲と家父長制(男を家族の中心にする考え)についても触れた。家父長制の弊害として見聞する「私は女性だから寺を継げない」という認識は、換言すると「私が男性だったら継げる」というそれ自体が家父長制に捕われた認識であることを指摘し、世襲そのものの問題を傍らに置いて継承者の性差の問題としている現状を提起した。
最後に、氏は、法然上人の「禅勝房伝説の詞」を取り上げて、我々が現代を生き抜く基本的な方向性はどこにあるのかを確認した。「大切なのは念仏申せるかどうかである。ここで変化を求めるかどうか判断するべきである。たとえ一人であっても、家族とであっても念仏申せるならどちらでもよい。法然上人は家族を持たなかった。宗祖は家族を持った。それだけの違いである。また宗祖においてはどうしたら聞名が、自分の身や心に念仏が届くのか、その方向を踏まえた上で変化せよというお知らせではないか」と述べた。
講義を受けて、根本的にどこか私自身と社会問題ということを分けて考えていたところがあったことに気づかされた。身と世は表裏一体であり、ジェンダーや差別は私の外にあるのではなく、私の内にある問題であったことも知らされた。経典にあたる際の学びの姿勢として、我が事として捉えられないとするならば、自分とは関係のないものとなってしまう。どうしたら念仏が聞こえてくるのか、ということを私自身の問題提起として日々の生活や法務にあたりたい。
文責 小泉弘瑞