坊守事業部門講演会開催
第4組教化委員会坊守部門
日時:2019年3月29日(金)13:00~
場所:東本願寺札幌別院
講師:亀谷亨(余市町即信寺御住職)
参加者:約150名
参加寺院:約27ヶ寺
今年度の公開講演会は、余市町即信寺御住職の亀谷亨先生にお越しいただき、「寿(いのち)を生きる」という講題のもと、お話しいただきました。参加者約150名、参加寺院も27ヶ寺と多くの方々にご参加いただき、「生きるとは何か?」「生きる意味とは何か?」という人生を貫く問いを共々に考えさせていただきました。
これらの問いは、生活の忙しさの中で消え去り、人生そのものの課題になりにくいのが実際です。先生は、この生活における実際の課題を浄土真宗の教えに尋ねていきたいと講演会冒頭でお話になりました。
次にお話いただいたのは、「いのち」を表す3つの字についてです。「いのち」を表す3つの字とは「生・命・寿」です。先生は、これら3つの字がそれぞれ異なる意味を表しているのではなく、今、現に私が人間として生きているそのいのちの在り様を言い当てていると紹介してくださいました。そして人間が生きるという意味においては、ただ生きているのではなく、使命を持ち、願いを含んだいのちである。そして私が生きているということは、必ずそこに何か求めるものがはたらいているとご教示くださいました。続けて、先生は親鸞聖人の歩みに想いを馳せるように次のように語っていました。
老病死するあなたのいのちはあなたが考える老病死だけではない。だから自分の見方だ
けに囚われないで、老病死の事実が問いかけてくる、本当のいのちの営みを実感できる、
味わえるような人になってくれ、その味わいをいただく道標(みちしるべ)として親鸞聖人は救いの姿
を自ら実感されたのではないか。そしてそのうなずきを、一切の人にも獲得して欲しい
と願われたのではないか。そしてどのような愚かな者にもうなずきを獲得させる道とし
て無量寿仏の名(みな)を称えるという仏道を教えてくれたのです。そして、このように広い世
界を自分の物差しではかり、闇と沈め、闇を自分では破ることの出来ない人間に闇を包
んではたらいて自分で自分を見下さない。自分で自分を見捨てない者になる。というこ
とが救かるということです。その身の声を聞く。その身の声を南無阿弥陀仏といただか
れたのが親鸞聖人なのです。
日々の生活の中で直面する老病死という問題に、つい私たちは「歳だから仕方ない」「誰もが通る道だから」などと言って、問題の中心が抜け落ちた偏った見方をしてしまいます。何かそこに生き生きとした在り様にならない理由があるように思います。先生のご指摘は、私たちの問題を問題としないような姿を言い当ててくださっているようでした。特に、「自分で自分を見捨てない者になるということです。」と語られたことは聴衆にとっても非常に重要なご指摘ではないかと感じました。
そして先生は最後に講題を踏まえ、次のように語られました。
寿(いのち)を生きる・寿(じゅ)なるいのち、無量寿なるいのちの中で、私たちは一瞬一瞬生命をいただ
いている。だからこそ大事に生きなければならない。尊い想いをもって生きなければな
らない。それが私にとって、今いただいているいのちをどれだけ大事に見えるか、どれ
だけ尊いと実感できるかなのです。心の中では闘いなのです。見たくない根性の方が多
いからです。でもそうではないなと、私にとって今生きている上で、見失ってはならな
い仕事だとそのように思っています。
と、講演を締めくくられました。
また、講演の後には質疑応答の時間が設けられ、参加者の方より「何度でも聞かせてもうことが聴聞ですよね?」との質問に、先生は即座に「それではダメだ!」と力強く応答され、「聞いて忘れるのがダメではなく、私の考えている事は危うい。私が私の感覚ではかっているいのちのものさしはどこか危ういことを教えに聞くのと、聞いてればいいのでしょ。とは違いますよね。」と質問者に対して真剣にお答えくださいました。改めて仏法聴聞を善いことにしてしまう姿が浮き彫りになったように思います。今回の講演会を通して、多くの方々に参加していただき、感謝申し上げます。また、今後の聴聞の姿を確認させていただく機縁をいただいた亀谷亨先生に感謝申し上げます。
報告者 熊澤ゆかり